音楽文化論評論家、早稲田大学 文学学術院 教授

小沼 純一

「届けられる音・音楽」の現在性を感じさせてくれる

「ためしに」というのは重要なことだ。ちょっとした「ためし」で、それまで抱いてきたものがぐらつくことだってある。このECLIPSE Home Audio Systemsが、その例だ。

慣れ親しんだ音源が、別の表情をみせる。これまで見えなかった何かが現れる。あ、そんなふうだったんだ。あ、そこにそんな音があったんだ。思わず、声をスピーカーのむこうの、誰か、にむかってかけたくなってしまう。

キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』。会場のケルンの大聖堂に「ひと」がいる。「そこ」に「ひと」のいるのがわかる。キースがピアノに触れるタッチ。踏みこまれ、そっと、半分まであげられるペダル。まわりにいる「ひと」の気配。ちょっとしたざわつき。椅子のきしむ音。見えないけれど、この場は「そこ」にある。

マイルス・デイヴィスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』。トニー・ウィリアムズの途切れぬハイハットがいつ開き、いつ閉じるのか。それがわかる。デイヴ・ホランドのベースが、毎小節、アウフタクトからはいって、1拍目へとつづき、アクセントをつける。複数のこまかい音が、きらきらと煌めくよう、ジョン・マクラフリンのギターとチック・コリア、ハーヴィー・ハンコックのツウィン・キーボード。そして、奥から、すっと姿を現すマイルス。スタジオなのか、ホールなのかはともかく、ひとつの広さ、奥ゆきが、音楽とともにある。

あるいは、小澤征爾の、フォルテ、との指揮棒を振りおろす直前の、瞬間に吸いこむ息の力強さ。
マドンナの、容赦なく音を切り、音のない瞬間を際立たせる衝撃。
マイクにつきそうになるくらい寄せられて、開き、閉じる桑田佳佑の口唇。

知らず知らずのうちに、まぶたを閉じてしまう。眼を開いていると、SF映画にでてきそうな、『スタートレック』の噴射口のようなスピーカーがある。円錐型のアンプがあって、何かしら違和感を感じないでもないから。

視覚を故意に閉ざすと、音楽はすぐそこだ。音の発される場所が、ひとつの広がりとなって、立ち現れる。

オーディオには無頓着にやってきた。とりあえず聴ければいい。オーディオにかける余裕があれば、新しい音源に手をのばす。そんなふうにずっとやってきた。でも、ごく最近、考えが少し変わってきた。親しいレコーディング・エンジニアに、「いい音」を聴かせてもらう機会があったからだ。あまり新しい音源に、以前ほど、情熱をかたむけることができなくなったせいかもしれない。とはいえ、そうしたオーディオ装置は、少なくとも、自分自身には無縁だと考えていた。

レコードの作り手が、送り手が、何をしたかったのか、作曲家や演奏家が何をしたかったのか。スコアがどう書かれているのか、アレンジがどうなっているのか。あくまで自分なりに、ではあるけれども、わかる。もし、十代の頃、このスピーカーが身近にあったら、どうだろう。演奏をコピーしたり、スコアを勉強したりするのに、どれだけ役立ったことか。もしかしたら、音楽を実践する道からはずれなかったかもしれない。身近に持つ可能性のあるいまの子たちに、嫉妬しない、と言ったらうそになる。

レコードの音楽は、過去にもけっしてそのまま存在した音・音楽ではない。それは誰かによって、耳をかたむけられ、それをさらに手を加えられ、ここに、そこに、どこかに、届けられる音・音楽なのだが、その「届けられる音・音楽」の現在性を、このスピーカーは、まさに、感じさせてくれる。

profile

小沼 純一 (音楽文化論評論家、早稲田大学文学学術院教授)

東京生まれ。学習院大学文学部フランス文学科卒業。製薬会社に勤務しながら、文学、美術、音楽についての文章を多数発表。2001年に早稲田大学文学部客員教授となり、文学学術員教授へ。1998年第8回出光音楽賞(学術・研究部門)受賞。横浜市芸術文化振興財団理事、横浜みなとみらいホール企画委員会委員なども務める。
音楽、音楽家についての評論活動だけではなく、文学、映画、美術、ダンス等、芸術全般にわたる広範囲な評論活動を行う。ライナーノーツなども多数執筆しており、その独特の感性による評論は音楽評論家希望の若手から羨望を集めている。