プレゼンス感/小原 由夫のサイト・アンド・サウンドVol.11

クラシックのコンサートに行かれたことがある方ならば、誰もが経験したことがあると思う。演奏が始まる前の、あの得もいえぬホール内の空気と臨場感を(気分的な高揚も多分にあるとは思うが)。ホール内に反響する喋り声や咳払い、あの独特の豊かで柔らかな雰囲気、まばらに楽団員が舞台に出てきて音合わせやチューニングを始めると、場内のそんな空気が一変し、楽器の余韻や共鳴に緊張感が加味されてくる。

そうした一連の立体的な音の雰囲気は、決して前方からだけでなく、上の方や横、後ろからも回り込んできて、ホール特有の響きを作り出しているわけだ。オーディオではそれを「プレゼンス感」と呼んでいる。

このプレゼンス感を十全に再現するべく、2chステレオ全盛期から今日まで我々オーディオファンは躍起になってきたわけだが、マルチch時代になり、状況は新たな局面を迎えつつある。つまり、センターchやリアchといったリスナーを取り囲む複数のチャンネル構成によって、前述したような音楽ホール特有の響きやプレゼンス感がより忠実かつ立体的にソフトに収録できるようになった。分解能や情報量が飛躍的に高まったそれらのソフトをうまく再生することができれば、ホール特有の空気感に限りなく近いニュアンスが再現できる可能性が出てきたのだ。

ここにたいへんユニークな1枚のSACDがある。日本を代表する女性ヴァイオリニストの五嶋みどりが、指揮者マリス・ヤンソンスとベルリン・フィルを相手にライブ録音を敢行した「メンデルスゾーン&ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲」(ソニーSIGC27)だ。DSDレコーディングによるこのSACDには、同一の演奏が2chと5ch(サブウーファchは未使用)の2つのトラックに収録されており、マルチch対応SACDプレーヤーで再生すれば、2chとマルチchの音の比較が簡単にできる。そのミキシングの違いが実におもしろいのだ。特にその差が顕著なのが、トラック4以降のブルッフのヴァィオリン協奏曲第1番ト短調の方である。

2chのトラックは、客席最前列辺りでステージにかぶりついて聴いているようなイメージの音場感。ステレオスピーカーのやや左ch寄りにヴァイオリンソロがスクッと立ち、その少し後ろに適度な厚みを伴ってオーケストラの響きが扇状に広がる。ソリストとオーケストラの距離感がたいへんに立体的に再生され、ECLIPSE Home Audio Systemsで聴くと特に余韻の美しさが際立つ印象。高さ方向の情報の再現力、微かな残響感をリアルに描き出す辺りは、タイムドメインの面目躍如たる部分といえよう。

一方で5chのトラックは、まるで指揮台で聴いているような錯覚を抱く。ソリストもオーケストラも極めて至近距離に感じられるため、違和感を感じる人がいてもおかしくない。あまりにも音が直接的、ダイレクトなのだ。ITU-Rの勧告にしたがって5本のスピーカーを等距離等高配置にセッティングして聴くと、まるで自分のすぐ左隣に五嶋みどりが立っていて、叙情的な節回しをダイナミックに奏でているように感じるほど。オーケストラの音はまるで覆い被さるようにリスナーを包み、楽器の音の強さを鮮烈に感じる。

果たして実際のコンサートで、こんなにも音のニュアンスを間近に感じることがあるだろうか。たぶん、ないだろう。

しかし、私はそれがダメと言っているのではない。はっきり言って、これ以上の“特等席”はないと思う。耳で聴くというよりも、もはや肌や身体、もっといえば、毛穴で音を感じる(吸収する)感覚に近い。演奏家の魂とリスナーの魂とが直接交感しているような、そんなリアリスティックな感覚がこの5chミキシングの音では味わえるのである。

メンデルスゾーンとブルッフのカップリングにて、同じソリスト、同じオーケストラと指揮者、そして同じ音楽ホールでありながら、わずか6ヵ月間の時間の開きが製作者にどんな制作意図の違いや心境の変化をもたらしたのか、非常に興味深いところだが、2つの演奏のそうしたプレゼンス感の差異を克明に描き分けたECLIPSE Home Audio Systemsにも改めて感服した次第である。